香川県(高松藩、丸亀藩、多度津藩)の食文化
調査班:伊原隼人、間中健介 調査日:2018年3月7-8日
1. 風土・歴史 次へ 目次
風土
四国に属し瀬戸内海に面する香川県は、美しい自然と恵まれた気候の存在する地域です。地理的には四国北部の平野・山地と瀬戸内海に浮かぶ島々で構成されています。気候は瀬戸内海式気候で晴天の日が多く雨が少なく、夏場には水不足になることもあり、逆に大雨になると川が氾濫することもあります。気温も温暖で、猛暑日や熱帯夜も少ないです。
交通から見ると、本島は伊予・土佐街道や丸亀街道、阿波街道で四国全土と繋がっており、お遍路などでも利用されていました。小豆島は中国地方と四国地方、九州地方と近畿地方の海路の交差点であり、貿易・軍事などの観点から要所であった。大量消費地である京阪神に近いです。
(伊原隼人)
歴史
香川県は高松藩・丸亀藩・多度津藩という三つの藩からできました。高松松平家の始祖である松平頼重は水戸黄門として知られる徳川光圀の兄だったため、高松と水戸はとても縁が深かったと知られています。水戸黄門の息子が高松で暮らしていたことも有名な話です。
江戸時代以前から香川では小豆島も含め沿岸部では塩の生産が盛んでした。そして江戸時代に入り、塩田づくりに特に力を入れたことで、和三盆で有名な砂糖・綿と並んで「讃岐三白」として知られるようになりました。干潟が多く、雨が少ないという気候にも恵まれ、明治には塩の生産量は全国1位となりました。また、塩田はのちに埋立地として利用され、もっとも生産量の多かった坂出は、今では工業地として栄えています。
塩がたくさんとれた背景が醤油づくりに繋がるのですが、大豆で作られる”醤油”は、江戸時代に広まりました。それまでは、魚から作られる魚醤が一般的でした。今回調査を行ったいかなご醤油は資料によるとおよそ西暦100年にすでに天皇への貢物として香川から献上されていたことが確認されています。
(間中健介)
2.調査した郷土食
2.1. 醤油豆 前へ 次へ 目次
・醤油豆とは
現在の香川県に属する地域で、江戸時代から各家庭で作られていた郷土料理で、焙煎したそら豆を甘辛く煮付けた料理です。
当時そら豆の生産料が一位だったこの地域ではどこの農家でも米の裏作として年中食べる量を栽培しており、農家行事や讃岐の郷土料理として欠かせないものであって、農繁期には常備食としてどこの家でも作られていました。作り始められたのは小豆島での醤油の成立と同時期と考えられており、製造方法が簡単であるため、複雑な背景はないとされています。そら豆を炒るのに時間がかかるため、家庭の中で時間のあったおばあちゃんなどが調理していましたが、経済活動が発展・効率化するにつれて家庭では作られなくなり食品メーカーが製造するようになりました。現在、消費量は以前と比べて少なくなったものの、家庭や小学校の給食で食べられています。
・醤油豆の作り方
作り方の工程は、[1] 焙煎 [2] 水煮 [3] 蜜漬(醤油や砂糖などに漬ける)となります。
[1] 焙煎
醤油豆特有の工程で、水で煮る前に行います。これによって皮が硬くなり歯ごたえのある食感になったり、香ばしい風味が出ます。
焙煎には時代背景があります。米が年貢として取られていた時代、そら豆を保存食として食べるためには乾燥させる必要がありました。そして醤油豆としてさらに美味しく食べるために炒っていたと言われています。実際、乾燥も焙煎もさせていないそら豆を水煮・蜜漬をすると形が崩れてしまう為、焙煎もしくは乾燥・焙煎工程が必要であるとされています。
これ以降は煮豆と同じような工程を行います。
[2] 水煮
94℃程度の水を何度か入れ替えながら茹で上げます。
[3] 蜜漬
醤油や砂糖、みりん、唐辛子などを配合した漬液で一晩寝かせます。
これらの工程を経て、醤油豆が出来上がります。以前は家庭料理として食べられていたためシンプルな工程となっており、[1] 焙煎を行うおばあちゃんが醤油豆のイメージなのだそうです。しかし、経済活動が発展・効率化していくにつれて家庭で作られる件数は減り、現在では主に食品メーカーの製品が食べられているようです。
・醤油豆の食べ方
食べ方としては、醤油豆単体で食べられることが多いです。醤油と砂糖で甘辛く味付けされた醤油豆は、お茶菓子や小鉢として食べられたり、お茶の間に置かれてテレビを見たり新聞を読んだり談笑しながら食べられるようです。最近では様々なレシピの開発が進んでいるようで、どら焼きやケーキなどのスイーツや、炒め物や煮物とも合うそうです。
・煮豆との違い
醤油豆を見て黒豆・煮豆などの豆料理が連想されると思われますが、明確には(1)焙煎工程の有無と(2)原料の違いによって区別されます。焙煎工程は醤油豆特有の工程であり、歯ごたえや香ばしさなどの特徴が引き出されます。また、醤油豆はそら豆を原料とし黒豆は大豆である点も違いに挙げられます。
・醤油豆の現在の立ち位置
時代とともに変わってきたことは、消費量の減少が挙げられます。一つの要因は、醤油豆を食べる習慣が衰退していることです。経済発展とともに習慣が解体され、日常的に醤油豆を食べる機会が少なくなっていった世代の若年層は醤油豆を食べる習慣が高齢層と比べて少ないことが原因と考えられています。他の要因としては、販売店が小売店から大型スーパーへと巨大化し品揃えが多様化していったため、醤油豆に触れる機会が減ったことや、お土産として購買されることが減ったことが挙げられます。
(伊原隼人)
<調査協力>
大西食品株式会社
香川県丸亀市土器町北二丁目78
http://www.onisi.co.jp/index.html
2.2. いかなご醤油 前へ 次へ 目次
・いかなご醤油とは?
いかなご醤油とは香川県の伝統的な魚醤で、いかなごという小魚を用いて作られます。いかなごは大きさにより、シンコとフルセに分類されます。今回訪問させていただいたラーメン西幸の西村さんはシンコを使い、日本料理菊水の板谷さんはフルセを使い、いかなご醤油を作られているそうです。フルセの方が脂がのっていますが、食用には主にシンコが使われています。
・いかなご醤油の作り方
いかなごを塩と漬けて、定期的にかき混ぜながら作ります。西村さんによると、塩分濃度は25%は必要だそうです。漬ける時間はいかなごの大きさによって変わるようです。小さいシンコを使う場合は半年〜1年、フルセを使う板谷さんは3年間漬け込むそうです。
・いかなご醤油の食べ方
保存用として用いられていたため、塩分は多く含まれます。魚のアミノ酸(旨味)が多く含まれており、出汁と同じようにも使われます。旨味が多いため、出汁のような使い方で大豆醤油と混ぜて利用されます。また、卵料理や魚料理など風味が薄い料理への風味づけとして使うと美味しいです。
ラーメン西幸ではチャーシューを作る際に少量加えているそうです。一般的に魚醤は匂いが強いという特徴がありますが、西村さんが作られたいかなご醤油は特に匂いが強く、匂いの少ないものが作れないかと苦労されていました。私もいただきましたが、味はサザエを焼いた時の出汁のような味でとても美味しかったです。
・いかなご醤油を取り巻く環境
いかなご醤油の歴史は長く、資料によると西暦100年から作られ、天皇へ献上されていたと確認されています。かつては現代の醤油のように使われていたいかなご醤油ですが、江戸時代から醤油が作られるようになり、徐々にその影を潜めていきました。戦時中は大豆醤油が統制経済下におかれたため、再びいかなご醤油が盛んに作られましたが、1955年ごろに完全に姿を消しました。
1993年に、小豆島の誇る醤油メーカーであるマルキン醤油がいかなご醤油を復活させ販売しましたが、あまり売れず数年で製造をやめてしまいました。
現在香川県でいかなご醤油を販売しているのは日本料理菊水だけだと認識しています。ラーメン西幸でもいかなご醤油を使っていますが、現在は6年前に作られたものを少しずつ使っているだけで、新しく作っていないとのことでした。
いかなご醤油が姿を消してしまった原因は、いかなご醤油が伝統食として根付いておらず、あくまでも家庭で使われる調味料にすぎなかった点にあるのではないかと考えています。そのため、より汎用性の高い大豆で作られた醤油に置き換わってしまったのではないでしょうか。他の3大魚醤であるしょっつる、いしるはしょっつる鍋などの郷土料理に不可欠で、現在でも伝統食として広く知られています。
また、現在いかなご醤油には別の問題が生じています。それはいかなごの漁獲量の減少です。瀬戸内海は海底に豊富な砂利があり、これがいかなごの夏眠の寝床となっていました。しかしこの砂利はコンクリートの原料として重宝され、高度成長期以来大量に採取されてしまいました。その結果いかなごの生息数が減少したことが調査により明らかになっています。また、寝床がなくなったいかなごが明石に移住したとも考えられており、現在明石ではいかなごがたくさんとれるようになっています。調べてみると、10年前から明石でいかなご醤油が作られていました。
・いかなご醤油の再興
今回訪問させていただいた方はどなたも、一からいかなご醤油を作られました。
ラーメン西幸では店主の西村邦明さんとそのお父様の静雄さんにお話を聞きました。静雄さんは県の職員の強い要望により20年前に作り始めました。そこにはかつて静雄さんのお父様が作られていた背景があるそうですが、作り方は知らなかったと静雄さんは仰っていました。そこから試行錯誤の末、5年ほどかけて現在の形に行き着いたそうです。しかし県の方からはそれっきりだそうで、静雄さんが引退されてからは新たに作られることはなく、邦明さんもどうするべきか悩まれていました。
また、商品化し現在も販売を行っていらしゃる日本料理菊水の板谷良一さんにもお話を聞きました。いかなご醤油を作り始めたきっかけとしては、香川の郷土料理はため池に生息する魚を用いたものが多かったが、現代では衛生上煙たがられるため、認知されていて衛生的ないかなご醤油を郷土料理として用いたら面白いと考えたことがきっかけだったそうです。作り方は地元の作ったことのある人から教えてもらったり、農林水産省のまとめた郷土料理本を参照にしたとのことです。
(伊原隼人・間中健介)
<調査協力>
日本料理 菊水
香川県さぬき市昭和1479-5
https://www.facebook.com/kikusui.usagi/
ラーメン西幸
香川県高松市牟礼町牟礼996-1
2.3. 小豆島の醤油 前へ 次へ 目次
・小豆島の醤油とは?
小豆島の醬油については諸説ありますが、1592年ごろから醤油づくりが行われていたという説があります。気候と海運の利便性に恵まれ、明治時代には400軒の醤油蔵があったとも言われています。現在は21軒の醤油蔵が残っており、その約半数では、木桶を使って醤油を仕込んでいます。 小豆島には品質、伝統にこだわり木桶を使い続けている醤油蔵が多く、日本全国で醤油づくりに使われている木桶の1/3以上、数にして約1150本もの木桶が現役で活躍しています。
・醤油の造り方
醤油の一般的な造り方を説明します。材料は大豆・小麦・塩・麹菌です。蒸した大豆と煎った小麦に麹菌を混ぜ、2日かけて繁殖させます。ここに塩水を混ぜたものが諸味で、桶の中で約一年間熟成させます。ほとんどの菌は塩に弱く、諸味の中では生きることができません。麹菌も同様に死んでしまいます。すると麹菌の作り出した酵素によって大豆・小麦に含まれるデンプンが糖に、タンパク質がアミノ酸に分解されます。そして今度は分解されてできた糖・アミノ酸をエサに発酵を行う耐塩性の乳酸菌や酵母が繁殖し、発酵を行います。こうして熟成された諸味を絞って、加熱による殺菌をすると醤油になります。発酵を行う乳酸菌や酵母は熟成中に増えるものとされているため、蔵や桶にもともと住み着いているものが諸味に入り増えたのだと私は考えています。
木桶での熟成は一年間という長い時間を要します。
・木桶で造る醤油
今回は木桶にこだわる醤油蔵2軒を訪問させていただきました。お話しいただいたのは正金醤油三代目の藤井さんと、ヤマロク醤油五代目の山本さんです。
どちらの蔵も、醤油づくりの主役は菌という姿勢は変わらず、小豆島の気候、100年以上使い続けてきた木桶と蔵が、菌を形作り、醤油を造ってくれているそうです。ブランディングのためではなく、本当に美味しい醤油を求めた結果、木桶は手放せないと藤井さんは仰っていました。直径約2mと大きな木桶は適度に空気に触れ、冬に仕込んだ諸味が夏に発酵を迎えます。このサイクルが丁度いいのだそうです。また、暖かく乾いた風は菌の発酵に適しており、醤油づくりが盛んに行われた結果、小豆島にはいい菌が住み着いていると山本さんは仰っています。
小豆島、そして日本の本来の醤油を支える木桶ですが、現在では利用する機会が減ってしまったこと、一つ一つの寿命が長いことが原因で需要はほとんどなくなってしました。醤油造りに使われる木桶はなんと100年以上使い続けることができるそうです。その結果、唯一製造を続けてこられた藤井製桶所も製造をやめてしまうとのことでした。そこで山本さんは、木桶づくりの技術を習得し、さらに職人を育てることで、木桶と醤油を守ろうと尽力されてこられました。今後は「需要をつくり、木桶業界を盛り上げる」と力強く語っていただきました。
木桶は菌の住処となるのですが、山本さんによると、中古の木桶では住んでいる菌が違うので、自社の味と同じ醤油ができないそうです。また興味深いことに、今回訪問させていただいた正金醤油とヤマロク醤油は、どちらも製麹工場が同じ大豆・麹菌を使って醤油を造っていらっしゃるのですが、出来上がった醤油はあっさりとこってり、正反対のものとなります。大豆・小豆の比率の違い、塩水の濃度、量の違いによって目指す品質が決まるそうです。蔵によって、桶によって、住む菌や醤油の味にクセがあって、そこにロマンを感じると述べる山本さんは最後に「菌には”意識”がある」と話してくれました。菌は人の気配を感じ、より活発に活動するそうです。菌を扱った研究をしてきた私は、菌に意識なんてないと考えていたため、興味深いお話でした。
小豆島には他にもたくさんの美味しい醤油を造っている蔵が集まっています。口を大きく開いた木桶が並ぶせいか、町には醤油の香りが漂っていました。
(間中健介)
<調査協力>
正金醤油 株式会社
香川県小豆郡小豆島町馬木甲230
http://shokinshoyu.jp/
ヤマロク醤油 株式会社
香川県小豆郡小豆島町安田甲1607
http://yama-roku.net/
2.4. その他の郷土食 前へ 次へ 目次
香川県に滞在中、せっかく訪れたのでその他の郷土料理も頂こうと思い全国的にも有名な讃岐うどんをいただきました。
1枚目の写真が高松駅前にある味庄、2枚目の写真が宇多津駅近くのひろ濱うどんです。味庄は昼に行ったのですが、昼休みに食べに来るサラリーマン、学生で賑っており香川県の文化に触れながら頂き、麺やだしの効いたスープが絡み合い非常に美味しかったです。また、ひろ濱うどんはボリュームたっぷりのうどんで、トッピングで食べたアナゴも含め美味しかったです。
小豆島では宿泊したホテル(オーキドホテル)の朝食に小豆島の醤油14種類が置いてあり、様々な醤油に触れることができました。濃口、甘口、再仕込みなどそれぞれ味がはっきり異なっていてい、醤油文化の幅広さに魅了されていました。もちろんヤマロク醤油も正金醤油もあり、実際に味の違いを体感した上で調査できたことは貴重でした。
また、日本料理菊水の板谷さんからいただいたいかなご醤油とお土産の讃岐うどんで釜揚げうどんを作ってみました。いかなご醤油は普通の醤油と比べ生魚独特の風味と高い塩分濃度が特徴で、ツルッとしてコシのある讃岐うどんにしらす、生卵、ネギと一緒にかけていただきました。潮の風味が引き立っていて非常に美味しかったです。
(伊原隼人)
3. 最後に 前へ 目次
食文化調査を行う中で、地域に根付いている食文化は気候や風土、歴史、社会情勢などと深く関係を持ち、人が生活をすることの奥行きに気づかされ、地域の特徴を生かしていくことは持続的な社会を作り、人々の愛着を育むことだと再認識しました。
また、今回調査に関わって関心を持ったのは経済活動の観点と生活・文化の観点から見た食品の違いです。現在の食文化は大型食品流通業者の利益システムが大枠を決めており、市場の上では持続的に多くの支持を集めないと食文化が継続せず、さらに変動の大きい流行に左右されてしまう傾向にあります。社会システムが確立してきた現代で、生活に欠かせないこれからの食の恒常性は経済性と文化性のバランスの中でどのように形成されるのか、さらに掘り下げていこうと考えています。
この食文化調査では様々な企業の方々に大変お世話になり、貴重な資料や経験を教えていただきとても理解が深まりました。私たちのためにお時間をさいてくださり、誠にありがとうございました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。
また、醤油蔵を訪問して菌が支配する世界を肌で感じました。実際に菌と向き合ってこられた藤井さん、山本さんとお話しでき、菌の偉大さ面白さを改めて知ることになりました。
このような機会を提供してくださった各企業の皆さま、ぐるなびの皆さまに心より感謝申し上げます。
参考資料
・幕末・維新の町を行く「香川県高松市 -高松と水戸と彦根の関係-」
(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/takamatsu13.htm)
・讃岐の風土記 by 出来屋
(http://dekiya.blog57.fc2.com/)
・「醤油豆」業界を取り巻く現状と今後の対応について(大西食品株式会社)
・レファレンス協同データベース 香川県内の醤油にまつわる伝承や民話について
(http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000030174)
・旬の百科事典 そらまめ
(http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/soramame3.htm)
・佐藤正美 1993年『魚醤(瀬戸の魚醤油、いかなご醤油について)』日本醸造協会誌 第88巻 第2号
(https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1988.88.135)
・印南敏秀 2016年『香川のイカナゴ醤油』瀬戸内海 = Scientific forum of the Seto Inland Sea : 瀬戸内の自然・社会・人文科学の総合誌 第72号
(https://www.seto.or.jp/publish/setonaikai)
・藤原建紀 2004年 瀬戸内海の水質と生態系の長期変動
(http://www.umitosora.org/umisora_pdf/vol80_2_5.pdf)
・観光省「瀬戸内海海砂利採取環境影響評価調査」の中間とりまとめについて
(http://www.env.go.jp/press/2265.html)
・醬油の話(丸金醬油株式会社 出版)